土がつくり出したかたち
□土は一般に柔らかく,適当な水分と粘りがあれば,自由にさまざまなかたちをつくることができる性質,つまり可塑性をもっている。同時にまた土は,火で焼くと柔軟さを失い,かたく硬化するという性質ももつ。やきものは,基本的には,可塑性と火による凝固というこの二つの土の性質を利用した技術の所産ということができる。この事実は,余りにも当りまえの現象であって,誰も不思議に思わないが,しかし考えてみれば,可塑性と凝固性は,まったく相反する二つの性質だ。柔らかい素材でなければつくることのできないフォルムが,そのままで硬くなるというのは,木,石,金属などの彫刻の素材にはない土だけの特性なのである。そしてそこから,土固有の多くの表現の可能性が生ずる。
□久世建二は,土のもつこのパラドキシカルな二面性を鋭く洞察し,それらの相互関係を鮮やかに作品として具体化した仕事を,はやくから一貫して続けている作家である。久世の作品がはじめて注目されたのは,1970年代初頭からのパッケージ(梱包)の連作によってであるが,ここでは立方体や円筒などのフォルムが,太いバンドでつよく縛られている(ようにみえる)。つまり土の可塑性を利用したバンドの圧力の表現が,凝固した物体というイメージを際立たせているのである。80年代前半の立方体や直方体の表面に小さな板を詰め込んだ作品も,圧力による変形がかえってその物体の凝固した存在感を表現しているが,この可塑性と凝固とのアイロニカルな関係をより率直にしめすのが,フォルムの表面に指や手の痕跡を直接つよくしるしづけした作品であろう。それは,ある物体(土)に別の物体(手)の跡が刻印された,いわば化石のような意味をもつ作品であり,そしてまた手の瞬間的な動きがそのまま凍結されているところにおいて,それは時間を内在的に表現しているということができる。
□近年の久世の仕事は,この「化石」あるいは「時間」という性格をより一層凝縮したかたちでしめすとともに,これまでの作品とは異なったあらたなフォルムの展開をみせるに至ったようである。基本になるかたちが,立方体,直方体あるいは上部がまるく盛り上がった蒲鉾形などの簡明なフォルムであることにはかわりがないが,そういうフォルムの土塊を一定の高さから下へ落とすのである。もちろん衝撃で,そのフォルムは歪められたり,亀裂を生じたりする。しかし久世は,その歪みや亀裂をできるだけそのままにして,土塊の内部を刳りぬき,素焼きをしてから施釉して焼き上げる。あるいはまた,棒状のながいフォルムの一端を持ち上げて,下へ落とすこともあるようだ。この場合には,落とされた部分と落とされてない部分とのフォルムの相違が,明確に対比されることになる。
□この近作が従来の仕事と決定的に異なるのは,いうまでもなく土に圧力を加えるのが作者の手ではなく,土塊の落下による衝撃だという点である。ここでも土という可塑性をもつ柔らかい物質の塊が,他の物体(床)と衝突して,その痕跡をしめしている。しかし痕跡は,指で土を押した従来の作品のように部分的に見られるのではなく,フォルム全体の歪みにしめされているのである。つまり作品のフォルム自体が,外から加えられた力の痕跡なのだ。しかもさらに重要なのは,このフォルムをつくり出す直接の力は,作者自身よりも,落下による衝撃という自然力だという事実である。作者である久世は,ここでできるだけ自己表現を抑制し,最終的なフォルムの決定をすべて自然の偶発的な作用にまかせているようにみえる。
□久世自身の語るところによれば,土塊の重さや落とす高さなどによって,フォルムの歪みは微妙に異なり,落下の衝撃によってそれがどのように変形するかは,ほとんど予測できないという。もちろん個々の落下に関するデータをこまかく調べ上げて,コンピューターで計算すれば,ある程度,変形の予測が可能かもしれないが,そういうことはたとえできたとしても,余り意味がない。立方体などの簡明な土のフォルムが,落下によって思いもよらなかった別のフォルムに一瞬にして変容する,その予測できない意外性が作者を惹きつけるのである。しかも自然の物理的な力によってつくられたそれらのフォルムは,ひとつとして同じものがないにもかかわらず,いずれも人間の手では容易につくり得ない複雑な構造をもっている。落下の衝撃は,可塑性のある柔らかい土のフォルムに,計算することのできない微妙な歪みや変形をもたらすのだ。だがそうかといって,その歪んだフォルムは,とり立てて奇妙でも特異でもない。自然物の大多数のかたちがそうであるように,すべて大自然の法則にしたがった,悠揚としてのびやかな存在感をそなえているのである。
□このようなフォルムは,われわれ人間の眼から見れば,土塊の落下によって偶然できたように思われる。しかしそういう偶然に生じたフォルムのうちに,人為を超えた複雑な構造と豊かな実在感を見出したのは,作者である久世の眼と精神である。そして久世は,このフォルムの構造と存在をより一層強調し,明確にするために,黒釉に金彩や銀彩を併用して彩色をする。黒,金,銀は,久世が初期からずっとかわることなく使用している色であるが,近作では立方体の一面だけを金,他は全部黒釉をほどこすなど,鮮やかな色面の対比をつうじて,フォルムの特色を際立たせている。金彩のほかに金箔を貼りつけたり,コバルトを主成分とする光沢のない沈んだ色調の黒釉をもちいているのも,この色面の対比をより効果的にするためにほかならない。
□このように久世の近作においては,そのフォルム全体が落下の衝撃から生じた自然力の「痕跡」であり,同時にまたその衝撃の凝縮した「時間」の表現である。作者の久世は,もはやここで自己の痕跡を土に刻印することなく,すべてを土の自然に委ねている。しかしそれにもかかわらず,われわれがその作品から感じるのは,紛れもない久世自身の鮮やかな個性だ。この作家は,制作に当たって自己を没却し,自然力によっておのずからうみ出されたフォルムの特質をできるだけ強調することによって,かえって片々たる小さな自我を超えた,より大きな個性につらぬかれた作品を創造しているのである。それは,いわば土と一体となり,土と完全に同化した自己の確立である。久世の近作の魅力は,土からもたらされたフォルムの大らかさと,作者の感性のこまやかさとが,緊密に融合して充実した全体をつくり上げているところにある。自己と土との不断の緊張に充ちたかかわり合いを,絶えず追求してきたこの作家は,いまようやくその二元的な対立を超克して,高い次元のあらたな世界を見出したようだ。
(乾由明 1991年)
□久世の作品に向かうとき,われわれに現われてくるのは素材の物質性である。久世の作品では,素材は何かを表現するための媒体として用いられているのではなく,それ自身が表現の焦点になっているように見える。
□このような身振りは,現代美術の中で特に珍しいものではないが,この傾向を示すものの多くが非美的ないし反美的であるのに対して,久世の作品は美しい。それは色の使い方に現われている。黒を背景にした金や銀はいかにも優雅であでやかである。そこには伝統に通じる美さえ感じられる。だがこれはあくまで一つの側面であって,彼の造形の本質ではあるまい。それはあくまで物質性の喚起にあると思われる。
□たしかに黒と金銀の対比は美しい。しかしよく見れば,黒は純粋の黒ではなく,コバルト系でしかも中性的である。つまり物の表面を覆うように広がってオプティカルに際だつ色ではなく,むしろ控えめで内部に染み込んでゆく。そのために,物は一切の虚飾をさって,本来の大きさや形,重さやマスにおいて浮かび上がってくるように見えるのである。久世は,釉薬をスプレーを用いて出来るかぎり薄くかけると言っているが,それは物の内部のどこを割っても同じ物質が出てくるように見せるため,言い換えれば,物を物として提示するためなのである。
□そして金銀も,その美しさを見せるためというよりは,「痕跡」を彩り,それに注意を引きつけるために用いられているように見える。
□痕跡とは,粘土に指を押しつけ,引きずり,あるいはへらで彫り込み,小刀で切れ目を入れて出来たその跡のことである。したがってそれは,飾りや模様である以前に,なによりもまず,働きかける行為と物質との間で生起する出来事の記録である。そしてこの記録に記されているのは,土は指で押せば窪み,引けば溝になるということ,すなわち手の働きかけのままに姿を変えるという事実なのである。
□もちろん,土がこのような性質(一般に可塑性と呼ばれている)を持っていることは誰でも知っている。それは別に目新しくもない,ごく当たり前のことにすぎない。だが,あることを知っていることとそれを真実として経験することは全く別のことである。自分の手の動きのままに土は姿を変えてゆく。この当たり前のことが驚くべき事態として立ち現われる。そういう経験が確かにある。これを驚きの体験(あるいは感動)と呼ぶとすれば,それが真実の経験を単なる事実の経験から分かつのである。言い換えれば,驚きの体験において,物の真実が露になるのだ。久世はおそらくこのような体験をしたに違いない。痕跡という命名法がそれを物語っていよう。かくして痕跡は,久世の真体験の痕跡でもあるのである。
□土に痕跡を残した久世は,次にそれを落とすことを試みた。ここでもまた土の物質性の関心が前景にあることに変わりはない。だがここにあるのは,行為の痕跡ではなく,いわば自然の痕跡である。確かに,落とすのは作家の行為であるが,その結果を彼は支配することが出来ない。それは偶然にまかすほかない。ここで,陶芸にはもともと,絵画や彫刻とは異なって,焼成過程における偶然の介在という特性があることを思い起こすことが出来る。土塊は必ず縮小し,釉薬は色を変ずる。そしてその変化は,火という自然の力にまかされている。しかし,焼成過程における偶然と成形過程における偶然は同じてはない。前者の偶然が必然であるのに対し,後者のそれは,作家の意志によって選ばれた偶然だからである。
□偶然によって生まれた土の塊はユニークである。ゆがみ,ひずみ,ねじれ,しわ,どれも極めて複雑でかつ自然である。そしてなにより,生き物のように見える。源初の生命体とでも言おうか。実に愉快で楽しい。撫でてやりたい,そんな気持ちさえ起こる。このような感じは,これまでの久世の作品には見られない新しい感覚である。久世は落とす行為によって,造形の新しい地平に行きあたったようである。久世には初期から変わらない一貫した傾向,すなわち土の物質性に対する関心があった。そしてこの関心に導かれて落下の造形に至りついたのであるが,土はここにおいて,物質としてのエネルギーを,最も強く燃焼させているように思われる。すなわちそのエネルギーはいのちに転化したのである。土が古代より世界の構成原理のひとつであったことを思えば,それがいのちを生むことになんの不思議もないであろう。
□久世の最近作は,偶然の造形と手による造形を組み合わせたものになっている。しかしその中心はあくまで前者にあると思われる。
(川上明孝 1992年)